英語では構文法として動作動詞がある大方の完結文は主語がある。 もし主語がなければ、英語を話す人々は誰かが誰かに何かをしたか 分らなくなって、困る。英語では話し手はいつも誰かが活動をするか を肯定する。ところが日本語では主語がいなくなってもいい プロードロップという現象が共通である。
西洋人個人的性格が強いと言われている。この考えを続けば西洋人は 集団より個人について考え、主語に対して個人を認めるようにすると 言えるだろう。共通に主語は明確に示してるが、曖昧な場合は聞き手 が困る。例えば、このような完結文はほとんど聞こえない:
"Bill met Ted at school. They went to get some chicken soup because he was sick."英語では一代名詞が原則として明かに主語を示すことになる故、こんな 完結文が聞こえない。
多くの日本語の一年生の完結文が「私は」という言葉で始まる。なぜなれば 英語から日本語へ直接翻訳して、英語では"I saw..."や"I went"などの 文が多いからだ。日本人が話す日本語の中では明言的な主語の代りに言外 の主語は確かにある。外国人にとって言外の主語を認めるのは難しいだ。 日本語では英語と反対に一代名詞がないことさえある。この違いはどうして あるのか。
この問題に関して研究をしたことはないのだが、日本と西洋の文化の 違いに関していることにありえない。日本の社会は集団向や対立的と 言われている。アメリカでは個人に構っていて、特に責任に集中する。 重要ではないものでも誰かが責任を持つことを知りたいので、 言語の機能の一つはそれを明かに示すと考えられる。その上、 西洋人は個人として認識しているから、対立する場合に会話に出る主語と 私を明確に差別できるようになった。
日本では特別の人が活動をするより、その活動がやらせたこそは重要 かもしれない。誰かが責任を持ているははっきりにわからなくても平気 という場合もある。例えば、「...ことになる」という表現は共通だが、 英語に当る"...it was decided"という表現の代りに責任を負う"XX decided that"という表現がよく聞こえる。話している時話し手は会話の主語を 紹介して、それから話し手もその同じ集団の一人として 区別するのは西洋の場合と比して大切ではないと思う。主語は、認められて から存在を続けると期待するから、なくなってもいいという状態が ある。そして、主語を明確に認めないのは対立的ではないと見られている。 (同じ理由で受身形がよく使われているかもしれない。)
プロードロップが共通といって必ずしも主語を述べないというわけでは ない。英語のように「私は...」という言葉で始まる完結文もある。 外国語や言語の勉強が好き人にとってこれは面白い問題だ。 人工翻訳にも大きな問題になる。日本語で主語がない完結文では 英語へ翻訳するとコンピュータは英語に当る主語を選択しなければ ならないので、解決しなくてはいけない。